「浜田」のなりたちと移り変わり
「浜田」の史料上の初見は1207年(建永2)「河内国通法寺領注文案」(正木直彦氏所蔵文書「尼崎市史」第4巻)で「浜田郷」とあります。
中世の頃は東新田とともに浜田荘の荘域でした。また、戦国時代にはしばしば陣が敷かれる要地でした。近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となり、天和・貞享年間(1681~1688)には家数53軒、人数317人とあります。
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1889年(明治22)以降は大庄村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となり、1955年の土地区画整理と1983年の住居表示により浜田町・崇徳院(すとくいん)・大庄川田町となったほか、一部が稲葉荘・菜切山町・琴浦町・大庄中通、大庄北・西立花町・南七松町・南武庫之荘となりました。
明治22年、市町村制が施行後、集落が統合され「村」となり、旧村は大字、旧村時代で呼ばれた字は小字と呼ばれるようになりました。
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その後、昭和30年頃、大庄中部土地区画整理事業が完成し、浜田は浜田町、崇徳院、大庄川田町、菜切山町に変更され、昭和58年、住居表示により現在の地域となりました。
浜田地域の歴史
常夜燈について
庄屋で海運関係に関する仕事も手掛けていたという堀新七氏が天保三年に建立したのが常夜燈です。常夜燈の直ぐ横には石橋が架かっていました。古地図によると常夜燈の横には浜田川が流れていたことが分かります。
昭和初期頃まで、ここに船着場は存在しており、佃方面から畑に撒く有機肥料として処理されたし尿を積んだ舟(尿一こえぶね)が良くやって来ていたそうです。
浜田水論について
浜田川はかつては水量の豊富な川でした。江戸時代には各地の農業用水として利用されていました。ところが、浜田村(大島井組)と西難波村(水堂井組)はともに井(ゆ)組(農業用水の管理組合)の最下流であったため、水利の面では上流各村と比べて不利でした。
浜田は旧武庫郡、西難波は旧川辺郡と分かれて発展しましたので、村々の結合も異なり井組も異にしています。両村にとって浜田川は非常に貴重な水路で、浜田村はこれを浜田村支配の川であると主張し、一方、西難波村は難波井筋として譲らず、宝暦・明和期(1751~1771)に、たびたび水争いが起こり、17年間も続く争いになりました。
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明和元年(1764)9月、論所(紛争の地)であった川縁田地に対して、セッ松村を加えた三ヶ村に立合絵図を作成するように命じられました。ところが10月に入り、この年の早魃(かんばつ)で、浜田村が浜田西側の水田に水を引くため、宮ノ川と竹が鼻に新しい杭を打ち込み、夜半に浄専寺境内北辺に水路を造ったことから両村の間で騒動が起き、双方に数多くの死傷者が出ました。
このため度々の吟味があり、ついには浜田村の庄屋と年寄の2人、百姓8人の10名が入牢させられ全員が死亡するという事態になりました。
松原神社について
近世には牛頭(ごず)天王社、近代には素盞嗚(すさのお)神社となり、1902年(明治35)に現社名に改称されました。
主祭神は、素盞嗚命(すさのおのみこと)で、崇徳天皇(すとくてんのう)を相殿神(そうでんしん)とし、三輪大明神(みわだいみょうじん)を配祀しています。
崇徳天皇が讃岐国に移られる途中に、身を寄せられたことによって此の地に祀られました。
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文明年間に素盞嗚命を脇殿に合祀するも、何時しか素盞嗚命を主祭神として祀り、崇徳天皇を相殿神としています。
崇徳天皇の霊を祀るので、12世紀(鎌倉時代)以降の創建ではないかと言われています。
神社誌には、「創立年月不詳。明治6年8月 村社に加列せられる。」とありますが、浜田に残る伝承「境内由緒(教育委員会)」によれば、崇徳天皇が讃岐に配流される途中、大風雨を避けてこの地にご休憩されたとき、村民が、鮗(このしろ)、蛤、蜷貝(まてがい)湯葉、嫁菜、牛蒡(ごぼう)、焼米、焼豆、塩おはぎ、等を差し上げてもてなしました。その所縁から、没後も御霊を慰め、お祀りしたのに始まると言われています。
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当社には、特定の家が神事に奉仕する「当屋」の制度が残されております。この様な当屋は、「宮講」と呼ばれ、現在も神社を中心とする年中行事を踏襲して、厳粛に行われています。
天和元年(1681)の史料では、宮座の運営は、後に北講と言われる「宮衆七人廻り持、村中支配」で行なわれていたそうです。天明期(1781~1788)の宮座は北講6家に南講24家が加わり30家で構成されたそうです。現在は北講であった5家と南講25家の30家で構成されています。
講に入っている30家の人々を神子(かみこ)、講に入っていない人たちを氏子(うじこ)といって、今日では氏子の戸口も増加して1800戸位になっています。
(松原神社の主なお祭り)
月 | 日 | 祭り名 | 祭りの内容 |
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1 | 1 | 元旦「神まいり」 | 1年の初めを寿ぎ、1年間の太平を祈願します。 |
15 | とんど祭り | 「お正月の神様」が「とんど」の燃える炎とともに帰られる「神送り」の小正月行事で、小正月の1月15日に行う火祭りです。旧年のお札や正月飾り、 注連縄等をお焚きあげします。 | |
2 | 初午 | 初午祭 | 2月の最初の午の日に、その年の豊作を祈願します。 |
3 | 13 | 春季大祭 | ダンゴノボー(団子奉)、湯立神楽(酒と塩と米で清めた湯を、神楽を踊った巫女が笹の葉で氏子らに振りかける神事) |
5 | 5 | 端午の節句 | 季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事です。 |
10 | 13 | 秋季大祭 | 現在は13日の前の土曜日と日曜日の2日間に梵天太鼓山車1基、子どもだんじり1台が氏子区域内を巡行し、禮祭(宵宮・本宮)を執行します。 |
12 | 13 | お火焚祭 | 今年一年間の収穫に感謝する行事です。 |
ダンゴノボー(団子奉)について
浜田に残る伝承によれば、崇徳天皇が讃岐(現在の香川県)に配流される途中、大風雨を避けてこの地にご休息されたとき、村民が、このしろ、はまぐり(四つ)、まてがい(二つ)、ばい(二つ)、およね、ゆば、よめな、しいたけ、ごぼう、かまぼこ、やぎ米、やぎ豆、塩おはぎ、などを差しあげてもてなしました。その由縁から没後も御霊を慰めおまつりするに至ったといわれています。
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現在3月13日に行なわれている春祭りをダンゴノボーといい、当時と同じものを献上する神事が行われています。
- このしろのかすむし:コノシロに酒のかすをのせて蒸す。焼き物の替わり
- まてがい:カイをゆでて身だけをダイコンなますの横に添える
- ばい:ゆでてから、ふたが開かないように止めておく
- はまぐり:二つは水を出すところを切って、ふたが開かないようにゆでておく。もう二つは、ゆでてからおからをつめておく
- およね:ダイズともち米の玄米を煎って、花が咲いたように米をはぜさせたもの
出典:松原神社祭禮 歴史書(松原神社太鼓保存会)